最終更新日 1999年12月28日

偉人を訪ねる-後藤快五郎【米子市】
山陰初の鉄道敷設に尽力した、米子の豪商 

【偉人を訪ねる】
後藤快五郎(1868−1927)【米子市】

山陰初の鉄道敷設に尽力した、米子の豪商

「山陰の大阪」と呼ばれる米子市は、古くから商業の町として栄えてきた。その礎をつくった男こそ、辣腕の米子商人、後藤快五郎だ。

米子の名門商家のひとつ「後藤家」に養子として迎えられてから、商人としての道を歩き出した青年は、その辣腕ぶりを発揮することになる。快五郎、二十三歳のときである。

快五郎がまず目に付けたのが倉庫業だった。米子と境港に倉庫を並べ、山陰各地の物産が米子に集中した。取引先は遠く北海道、九州、朝鮮半島、満州にまで及び、後藤家の倉庫は国内外に出入りする荷がうずたかく積み込まれた。次いで着手したタバコ事業は刻みタバコの製造はもとより、倉庫業とタイアップして耕作も奨励。後に「山陰のタバコ王」と言わしめるほど、この事業は大成功を収めた。

しかし、快五郎の名声はその並み外れた商才ではなく、地域発展への貢献によるところが大きい。その代表格が境港を起点とする境線の敷設だ。当時、米子駅の設置場所をめぐって、用地買収に行き詰まっていたこの山陰初の鉄道建設事業を、なんとか実現するべく東奔西走したのが快五郎であった。快五郎は土地提供の調整役を務め、さらに埋立て用の砂にと自分の砂山を無償で提供した。海運・倉庫業を営む後藤家にとって、鉄道はライバル事業にもかかわらず、公共の発展のために私財をなげうってまで尽くす――。この“米子モン気質”は、まさに快五郎のなかに生きている。

米子市内町の加茂川べりに佇む後藤家
後に鉄道当局は快五郎の労に報いるべく、終身パスの贈呈を申し出たが「汽車賃を払って乗ったほうが気が楽だ」と辞退したことが、豪傑ぶりを物語る。仕方なく当局は駅名に彼の名を残すことで、感謝の気持ちを表した。当時と同じ米子市米原にある「後藤駅」は、いまも通勤・通学者を見守っている。

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